野洲高校優勝の意味

野洲がすごい。楽しい。面白いサッカーをする。そんな話をテレビやネットで見かけてあわてて見た。準々決勝の多々良戦と決勝の鹿児島実業戦を見て、あと2試合録画してある。それぞれは、見た日に雑感を書くとして、巷であれこれ出ている「野洲スタイル」についてまとめておこうと思う。いくつもあるのだけど、目立つところから、地味な方へ向かうことにする。かなり長いので呼んでいただける方は、お覚悟めされ。

1:クリエイティブなのか
アナウンサーがたびたび絶叫する。クリエイティブだ、と。個人的には否。面白いことに、解説陣からもそういう発言は積極的には出てこなかった。という裏づけから言うのではないが、「クリエイティブ」という言葉はサッカーには当てはまらないのではないかと思う。アイディアが豊富な上、それを実現するための技術が正確であるがゆえに、ある場面ではトリッキーに見えるということだと思う。しかし、これはサッカーにおいては非常に有効なことである。全員の判断力とアイディア、技術が高く、指導者がそれを正確に鍛え上げた、あるいは鍛えようという意識を植え付けた結果といえる。天賦の才という意味で天才といえそうもないとも思う*1。日が当たらなかったかもしれないが、彼らこそ、英才教育をされてきた真のエリートといっていい。

2:思考力と技術の融合と攻守の一体化
サッカーを真剣にプレーする上で必要なことが3つある。1つは体力と筋力、走力といった「運動能力全般」。さすがにスポーツである以上、避けては通れない。2つ目はアイディア。場面にあったプレーを選択して判断する力(≒戦術眼)、駆け引きなどのメンタル面、経験値などをあわせて「脳みそ力」といえるかもしれない。そして最後の1つは「技術」。言ってみればサッカーという競技の核といっていい部分であり、ボールに対して技術がつながることが、サッカーという競技を実行させているもので、技術がなければサッカーは成り立たない。
この3つ、どのチームの選手もちゃんと持っている。野洲高校の場合、この3つのうちの「脳みそ力」と「技術」が綺麗にリンク…というよりシンクロしているのが大きい。この2つを合わせて便宜上「実行力」と呼ぶことにする。ヒールパスが話題になっていたし、あれこれ説明するのに丁度いいのでこれを例にとる。ヒールパス(ヒールキック)なんてものは、少し練習すれば誰にでもできる。では、他のチームで野洲高校ほど頻繁に見られないのはなぜかを、箇条書きで比べてみる。

普通の場合:
・ボールを持つ選手
−ボールを持つ側はリスクを犯さない
−受け手を信用していないためにプレーを選択しない
・受ける選手
−ボールを持っている選手が「ヒールパスする」ということ、確率の高い選択肢として考えていない場合が多い
−双方にヒールパスを行ってきた回数が少ない
−「ミスする」ことに対しての意識が低いので、カバーリングが甘いことが多い
野洲高校の場合
・ボールを持つ選手、受ける選手双方
−「ヒールパス」が当然のように選択肢に入ってる
−ミスをすることも、成功することと同レベルで常に頭の中に入っている
−技術としてのヒールキックがインサイドキックと同レベルで当然のプレー
−実戦で何度も行われている

これだけの差が1試合を通じて積み重なれば、大きなスタイルの差になるというのは誰でもわかる。
横道にそれるが、これは守っている選手はたまらない。守備の鉄則はボールを持っている選手、あるいはチームの選択肢を減らしたいのに、最初から減らすべき選択肢自体が多い。「ドリブル」「キープ」に、「併走している選手+フォローの選手」の数だけのパスコース。そして、いずれも実行レベル、成功率は高いとなれば、やっかいというより「勘弁してくれ」という弱音も吐きたくなる。カウンターを食らった守備陣の負担は想像以上だろう。数が足りて、その全員が高い集中力と守備技術を持っていなければ、守りきるのはかなり難しい。とはいえ、持久力が高く、早い出足が持ち味のチームのプレッシングを完全にかいくぐれるかというと、決勝で鹿児島実業に押し込まれた時間帯が参考になると考えられる。未見だが、PKまで持ち込まれた大阪朝鮮戦や、打ち合いの四日市中央戦も、似たような苦戦をしたのではないかと思う。
守備はどうだったのか。ボールを持つ相手に対峙する場面で、各選手の切り替えと寄せのスピードが目立ち、集中守備の基本が徹底されているように見えた。これは、ボールを持った場面での「仲間がミスすることも当然の選択肢」としていることが大きく関係している。「仲間のボールロスト」は野洲の選手にとって常に想定内。ボールに近い選手は、近すぎてターンオーバーにつききれないことはあっても、少し離れた選手は必ず急行して攻撃の芽を摘みに行く。1人が追いついたら、その後から近い選手が2人、3人と囲みに来て奪ってしまうというのは、ひとえにポジショニングの良さ(選手間の距離感の良さ)であり、バランスが良さが1試合、ほとんど崩れることなく続いている証拠だろう。体格に恵まれた選手の前では苦戦することはあっても、完全に無力であるようなことはほとんどなかったと思う。そういう意味では、攻撃ばかりに目が行くが、守備でもハンデをわかった上で水準以上のトレーニングがされていたと思われる。

3:システム論の封殺
今大会、非常に興味深いと思っていることが1つある。それは外野のほとんどがシステム論を持ち出さなかったのに、野洲の山本監督自らのコメントで久々にそれを見た。つまり、サッカーという競技の中で、システムは決してあらゆるものの上位にあるものではない、ということを再認識させてしまったのだ。その理由は、野洲の攻撃と守備が変幻自在に見えるからだと思う。よく言えば自由、悪く言えば無秩序。なぜそう見えるのか?得点シーンを見ると「決まりきった」と言い切れる形が存在しないという点にある。つまり、個々の役割の都合上、絡んでくる選手が結果的に同じになるだけで、「そういう形」で点を取るような練習をしていないのではないかと思う。この変幻さを生むのは、先に述べたリアルタイムで流動する選択肢に対応していける実行力に他ならない。この流動性は、見る者にとって「何をするんだろう」というワクワク感となり、余計なことを考えずに楽しめる。さらにドリブルやパスなどのプレーが正確で、そこをベースとした効果的なペネトレイションや綺麗なパスワーク、的確なポジショニングなどが、凝り固まったシステム論や全体戦術的な話を凌駕するほど試合の主要素となってハッキリとし、見ている者がサッカーという競技の原点に立ち返れたのではないか。それは、個々の選手のサッカーという競技に対する理解度が高いため、システムやポジショニングではなく「攻と守」というたった2つの状況に対するプレーを高めて試合を行っていたからではないかと考える。

4:まとめ…というか、その他もろもろ
野洲高校の試合をはじめて見たとき、「どこかで見たサッカーだな」と感じた。全く次元の違うプレーではなく、いつかどこかで見たことがある。しばらくしてクラブのユースチームのスタイルに似ていることに気がついた。「高校の部活チームvsユースチーム」という試合に見えた。決勝での実況アナの説明で合点がいった。ジュニアユース(セゾンFC)に所属していた選手が多く在籍しているという。しかも、両チームの監督は目的が同じで、いわば6年一貫教育を行っている(ジュニアもあるから…小学1年生からなら12年か!?)という。セゾンFCのWebサイトを拝見したところ、常に選手の将来を見据えた指導をしているとある。こういった志の高いチームが排出した選手をさらに鍛え上げた高校が選手権を勝ち取った。トーナメントならではの抽選の妙や、サッカーという競技にある運やツキ(ポストに当たるかどうか、あたったボールがどちらかに跳ねたかまでの細かな要素も含む)もあったかもしれない。にしても、拾える運やツキは選手たちが、練習や努力の結晶をもって拾い集めたもので、その優勝が色あせることは無い。監督のコメントとして「リーグ戦向きのチーム。公式戦全てをリーグ戦だと考えると、PK負けがあるだけなので無敗と言っていい」というようなものがあった。人によっては自信過剰に聞こえるかもしれないが、門外漢*2だった監督からすれば、己が進んだ道が証明されたことこそ、自信の源になっているのだから、言ってしまっても良いと思う。それだけの努力の上にあるはずだから。
閑話休題。ガンガン走るサッカーは駄目、とは言わない。だが、失敗するのがサッカーであり、リスクを取ってプレーをしていかなければ経験が積めず、成長が無いのがサッカーだ。ガチガチに固めた、相手の良さをつぶすだけの守備で、エースがロングボールから点を取る。不思議なことに、野洲との試合で多々良も鹿児島実業も、少ない場面ではあったが、野洲のお株を奪うようなパスワークやペネトレイトを披露している。やればできるのだ。他の学校の選手でも。ただ、それを指導する人が少なく、リスクを許容する理解が足りないだけだ。つまり、日本サッカーの進退を決するのは、指導者や学校に漂う、タイトルに対する意地汚さやサッカーに対する不理解に他ならない。としておこう。正直、野洲がタイトルを取ったことより、このチームがきっかけで光明が見えたことのほうが素直にうれしかったりする。そういう意味では1サッカーファンとして感謝したいです。はい。

*1:努力をすなわち天才というなら、まったく当てはまっているといって良いようだ。あれこれ聞き、読みかじったエピソードによれば

*2:専門はレスリングだったそうで…